HIGHLIGHTS
CONTENTS
巻頭カラー口絵から巻末年表まで、約400ページ。
NATURE & LAND
かつて、山の恵みがこの地を支えた。
市内最高峰であった「からたきの峯」(1,858m)を擁する山岳地帯から、小曽部川の流域にかけて、古くから林業がさかんに営まれてきた。古代の寺社建立から江戸の都市建設まで、木材はその時代の最重要資源の一つ。山の恵みが、村の経済的な基盤を支えた。
中世には小曽部川、奈良井川沿いに水田の開発が進み、戦国時代末期にはこの地方有数の石高を産出する集落となっていた。やがて奈良井川と小曽部川などにはさまれた広大な台地(岩垂原410ha・芦ノ田原)の農業開発が、江戸時代初期から進んだ。


HISTORY
なぜ京都の公家政権は、洗馬を欲しがったのか。
藤原実資、後白河法皇、室町院。時代の公家政権が、遠く信州の洗馬を代々手に入れようとした。洗馬牧は県内に4つしかない私牧の一つ、洗馬の庄は京都・蓮華王院(三十三間堂)の荘園。地名や堂に、今もその言い伝えが残る。
桔梗ヶ原がまだ未開発だった時代、洗馬は松本平の北へ向かう貴重な渡河点琵琶橋を擁する情報・物流の「蛇口」だった。馬を産出し交通の要衝でもあるこの地を、公家政権たちは何世代にもわたって手放さなかった。そのこと自体が、洗馬の価値を物語っている。


CULTURE
江戸時代に文人が集まった理由がある。
経済的に潤い、高遠藩の飛び地として中央から距離を置いた洗馬には、自主独立の気風が根付いた。日本民俗学の先駆け・菅江真澄が旅のスタートとして1年余り滞在し、小林一茶も句を寄せた俳人兎国・乙人を輩出。「北の小布施、南の洗馬」と並び称された信州庶民文化の中心地だった。
この文化の系譜は近代にも続く。文化勲章を受章した医学者・熊谷岱蔵は菅江真澄を宿泊させた医家の6代目。豊かさが文化を呼び、文化が人を育てた。


INNOVATION
進取の気風は、現代にも生きている。
戦後の洋菜需要にいち早く目をつけアメリカから種を導入、進駐軍への野菜供給指定地に。「段ボール化」「今日取り明日売り」など独自の工夫を重ね、全国初の予冷庫の導入により「洗馬のレタス」は全国ブランドへと成長した。
歴史をたどれば、洗馬は常に時代の先を行ってきた。明治初めの塩尻随一の製糸工場、松本平で先陣を切った購買組合。「洗馬のレタス」は、その最も新しい表れだ。


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※ これらはすべて地区誌『洗馬』に収録予定のコンテンツです